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2000年11月
喜多院は、川越で一番有名な寺院といってよいでしょう。
年中行事も数多く行われ、多くの人が訪れます。
喜多院を語るときに一番の重要人物は、
NHK大河ドラマ「葵〜徳川三代」にもたびたび登場する天海大僧正でしょう。
今回は喜多院と天海大僧正との関わりに注目します。


第4回
喜多院

天海は、慶長四年(1588)に当時の無量寿寺北院の住職になります。天海は諸国名山を遍歴、比叡山や三井寺でも修行を重ね、武田信玄のもとにいたこともありました。当時は、豊臣秀吉による関東攻略が成功して、徳川家康が関東へ入国した頃。その後、家康は関が原の戦いで天下統一を成し遂げ、ついに江戸幕府を開きます。

慶長十二年(1607)家康は駿府城に移っていましたが、比叡山内部の争いが起こり、家康にその裁許が求められていました。そこで比叡山の論争を収める人物として、天海の名が挙がり、荒廃していた比叡山の復興にあたらせます。慶長十三年(1608)家康が駿府に天海を招き、初めて二人は対面したとされています。以後、側近として重く用い、二代将軍秀忠、三代将軍家光とも深い関わりを持ち続けました。鷹狩りには、三人とも川越方面によく訪れ、喜多院にも足を向けています。

慶長十七年(1612)家康はかねてから天海が願っていた無量寿寺の再興に着手します。名前も喜多院に改められ、関東天台の本山とし、天海を在住させます。建立された大堂には、国中の諸大名が礎石をひとつずつ寄進し、費用は一万六千両ともいわれます。本尊など多数の仏像も京都の仏師の手で作られました。慶長十八年(1613)、幕府は「関東天台法度」を定め、喜多院の天海に授けます。この「関東天台宗法度」には、比叡山延暦寺との関係を規制する条文があり、天台宗の勢力を二分することや、主導権を比叡山から関東に移そうと考えたのだといわれています。この法度により、喜多院は東の比叡山を意味する「東叡山」と改められ(後に上野忍ヶ岡の寛永寺に移る)、ますます隆盛を誇ります。

元和二年(1616)駿府で家康が没し、七十五歳でその生涯を閉じます。遺体は遺命に従って久能山に移され葬儀が行われました。ここで有名な論争があります。家康は神として祭られていますが、その神号を「大明神」とするか、それとも「権現」とするのか。梵舜(ぼんしゅん)や崇伝(すうでん)は「大明神」を主張、天海は「権現」を主張。論争の末、天海は豊国大明神(豊臣秀吉)の子孫はどうなったかと問いただし、「権現」に決まります。そして、朝廷・幕府の評議により家康に「東照大権現」と神号が与えられました。

その後、家康の遺骸を久能山から日光山へ移すことになりますが、途中行列は(遠回りをして)喜多院に入り、四日間の法要が営まれました。そして、日光山へと遺骸は運ばれ、東照宮に祭られたのです。秀忠は、江戸城内にも東照宮を造りましたが、天海も寛永十年(1633)年、喜多院の境内に東照宮(仙波東照宮)を造営しました。

それから五年後の寛永十五年(1638)川越城下は火の海に包まれます。これが寛永の大火です。喜多院は、山門を残し、ほぼ全焼。家康の命により再建された堂塔は焼失してしまいます。当時、天海は百歳を越え、上野忍ヶ岡の寛永寺で過していました。大火後すぐに、家光の命により仙波東照宮の再建から復興が行われ、当時の川越城主堀田正盛が取り仕切り、二年後にはほぼ復興を果たします。

復興にあたり、客殿・書院・庫裏は江戸城紅葉山の建物を天海が譲り受け、解体して喜多院に移築されました。そのため「徳川家光誕生の間」、「春日局化粧の間」が喜多院に現存しています。これらは、江戸の大火を免れた江戸城唯一の遺構とされています。この時、解体された資材を川越まで運んだのが新河岸川で、後に川越を経済的に発展させる要因の一つとなる、舟運(しゅううん)の始まりになったのです。現存する喜多院の建物のほとんどは、この寛永の時期に建てられたものです。

天海はこの復興を見届け、寛永二十年(1643)に寛永寺で最後を迎え、百八歳で入寂。遺言により日光山中の大黒山に葬られました。慶安元年(1648)天海は、慈眼大師と追号されました。そして、厨子に入った等身大の天海の寿像をおさめた慈眼堂は正保二年(1645)に建立されました。

 

次回は、駄菓子がいっぱいの菓子屋横丁を特集!


慈恵堂

 


徳川家光誕生の間

 


春日局化粧の間

 


仙波東照宮


コンテンツ制作にあたり、いくつかの文献を参考にさせていただきました。
また、ご協力いただいたすべての方々に感謝いたします。

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