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2001年4月
もう春ですね。
今、この文章を書いていて、オフィスの窓からふんわりとした
春の陽が差し込んでとてもいい気分です。
世の中を見渡すと、いろいろなことがあって困りものですが、
こんな春の日にはちょっと余裕を持って過ごしたいなあと思います。
今回の小江戸探検隊は、喜多院の一角にある五百羅漢を探検します。
いろんな羅漢さんがきっと楽しませてくれます。
ぜひお休みの日には、羅漢さんたちに会いに来てください。


第9回
五百羅漢

五百羅漢の入り口を入っていくと、540体の羅漢さんが待っています。ひとつひとつ見ていくと、羅漢さん達は、各々自由な姿勢で佇んでいます。笑っているもの、顔をうずめているもの、怒っているものなど、喜怒哀楽を通り越して、みんなとても表情が豊かです。羅漢さんを見ながら、観光客の方々は会話も弾んでいて、子供たちだって、面白そうに羅漢さんの顔を覗き込んでいます(いいよね、こういう情景!中には数を数えている子もいました!昔、私もやってたような・・・)。でも、何で540体の羅漢さんたちがここにいるのでしょう?その前に、羅漢さんて誰?という方もおられると思うので、その辺から探っていきたいと思います。

羅漢とは、阿羅漢のことで、「悟りを開いた人」「涅槃に達した人」を示し、仏教の究極の心理に達し得た方々のことをいいます。日本の五百羅漢信仰は、江戸時代中期から盛んになり、流行するにしたがい、表情が豊かになって、庶民的な明るさを漂わせ、大勢の人々から信仰されるようになっていきます。俗にいう「死者に会える」という信仰と、五百羅漢の庶民性と結びつき、ひたすらに造像することに功徳を願ったものと思われます。

喜多院の五百羅漢は、天明2年(1782)より志誠(しじょう)が中心となって建立していきます[正確には、安政4年(1775)に関根仙右衛門庸清が父と母の供養のため「阿難陀尊者」を建立寄進したのが最初といわれ、その後、五百羅漢の建立へ発展させたのが志誠だといわれています]。本名を内田善右衛門、現在の川越市北田島に享保19年(1734)に生まれています。内田善右衛門は、親族が止めるのも聞かず、出家して志誠大徳となります。志誠は、五百羅漢の建立を喜多院に願い出、勇猛果敢に建立に取り組んだといいます。おそらく時代のありさまを見て、当時飢饉で死んでいった人々の供養や民衆の平和な暮らしを願っていたのではないでしょうか。

この時代は、百姓一揆や打ちこわしが各地に多発し、また天明2年(1782)から数年続く天明の大飢饉が起こるなど、幕府の対応が疎かだったこともあり、社会体制が大きく揺らぎます。一方、川越では寛保4年(1744)に大洪水が襲い凶作をもたらし、天明2年には浅間山の噴火による降灰で不作に見舞われ、同4・7年には冷害が追い打ちをかけるなど、さまざまな災害が人々を苦しめました。

しかし、志誠は二大士・十六像をはじめ、およそ40尊を造って不幸にして4年目に病に倒れ、寛政12年(1800)7月22日、66歳でこの世を去りました。その後、志誠の意志を受け継いだのは、喜多院の学僧であった慶厳、澄音、祐賢。500体に近い残りの羅漢像を完成するため、近隣各地に浄財を求め、川越をはじめ各地の講衆に協力をあおぎ、文政八年(1825)に遺業を達成するに至ったのでした。

五百羅漢には夜こっそり詣で、一つ一つ触れていくと人の体温を感じさせるように温かいものがあり、印をつけて翌朝その前に立つと、それは会いたいと思っていた亡き人の顔にそっくりだという伝承があります。これだけの羅漢さんがいるので、似ている顔があっても不思議ではないですが、夜こっそりここに来るのはちょっと怖いし、それに今は閉門するので、夜入ってはいけません!ユーモアがあって、笑いがあって、苦しかったり、悲しかったり。羅漢さんたちの姿は、私たちのそのものですが、「いろんなことがあるから、人生っていいんでしょ。お互い頑張ろう!」といっているように私には思えてきました。「そうだよね。」と心の中で羅漢さんたちに答えて、喜多院を後にしました。


羅漢さんがユーモアの大切さを教えてくれます。

 


どこかで見たことがあるような・・・。

 


これでも皆さん、とても偉い方々です。

 


志誠さんが眠る墓(川越市北田島・円満寺)

五百羅漢を見学される方は、喜多院の寺務所で共通拝観券を購入してください。
共通拝観券で家光誕生の間や春日局化粧の間などと、五百羅漢を拝観できます。

次回は、静かで落ち着いた佇まいが人気の天台宗別格寺院・中院を探検します。


コンテンツ制作にあたり、いくつかの文献を参考にさせていただきました。
また、ご協力いただいたすべての方々に感謝いたします。

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