当時は、全国で町並み保存運動が高まっていた時期でもあり、川越でも青年会議所が蔵造りを生かしたまちづくりをテーマにしたシンポジウムなどを開催していました。また、1974年に、日本建築学会関東支部が川越をテーマとしたコンペティションを開催。コンペティションでさまざまなアイデアが発表されました。その結果、多くの建築家や研究者など、町の外部から川越の応援する人々が登場してくるのでした。
1975(昭和50)年には、文化財保護法の改正を受け、「伝統的建造物群保存地区」の制度がスタートします。各地域で地元の歴史的景観に注目が集まるようになり、川越市でも保存地区指定に向けての調査が行われています。しかし、当時川越一番街商店街を含めた地域を「伝統的建造物群保存地区」地区に指定することはできませんでした。当時、文化庁は第1号に川越を指定したいと考えていたのですが、商店街には規制を受けることで建物を固定するような印象があり、看板すら立てられなくなるのではないかという不安があったのです。
また、明治に建てられた蔵造りにそもそも価値があるのかという疑問や、まさか蔵造りを見に多くの人が集まってくれるとは思ってもいなかったということもあるでしょう。当時の川越一番街商店街は八百屋や魚屋をはじめ地域密着型の店が多かったため、観光客が来ても売るものもありませんでした。しかし、何よりも重要文化財と同じように建物に規制がかけられ、何も出来なくなることへの不安が大きかったのです。こうして「伝統的建造物群保存地区」指定の動きは一旦止まることになりました。
1970年後半になると、市街地周辺に高層マンションが建つようになります。市民からは当然反対運動が起きましたが、マンションの建設を阻止することはできませんでした。そうした状況を何とか打開するため、川越市建築指導課では1981(昭和56)年に「川越の町並みとデザインコード」の検討をある財団に依頼。川越の応援団でもあった大学研究者らと共同研究を行った結果、町並みを単なる規制、制限にとどめるべきではないこと、活性化のための街区再編、住民・行政・専門家の協力関係などが提言されていました。