町火消について

川越の蔵造りは、明治26年の大火を契機に建てられました。この大火は市街地の大部分を焼き尽くし、川越の町に大打撃を与えました。その後、商家を中心に順次復興し、蔵造り建物を中心とした町並みがつくられました。復興に際しては、大火からの教訓として防火対策が優先的に考慮され、その具現化したものが蔵造り建物であったといえます。ここでは、火事の際に活躍した町火消に関する資料を見ていきましょう。


町火消の道具

いざ火事が起こると、まず火事装束に身を包んだ纏(まとい)持ちと梯子係が現場に駆けつけ、屋根の上で纏を振りかざしました。消火に関わる人々は、この纏を目印に火消道具を運んで集まりました。江戸時代以来、消火作業は組織化された「火消」が中心となっておこなわれましたが、当時は破壊消防が主で、火災現場の周囲の建物などの可燃物を破壊し、除去することで延焼を防いでいました。すでに龍吐水などの消防ポンプは各地に配備されていましたが、消火用水の供給ができないため、消火に十分な効果は期待できませんでした。明治31年(1898)にはじめて消火栓ができると、次第に全国に普及し、放水による消火ができるようになっていきました。

●龍吐水(りゅうどすい)二番蔵展示

龍吐水
龍吐水

江戸時代中頃にオランダから伝来したといわれる消防ポンプの原型で、類焼を防ぐために周りの建物をあらかじめ壊すという破壊消防の時代には画期的な道具でした。しかし、水圧が低く放水量も少なかったため、燃え広がった火事を消火できるようなものでなく、火事場に駆けつけた纏持ちと纏に水を掛ける程度のものでした。
明治17年 (1884)末に、国産の腕用ポンプが量産されるようになって、順次廃止されていきました。

●水鉄砲(みずでっぽう)二番蔵展示

消火のときの効果に疑問はありますが、れっきとした消火用ポンプです。実際には龍吐水同様、消火に当たる人たちに水をかけるために使用されたと考えられます。

水鉄砲 水鉄砲

 

●鳶口(とびくち)二番蔵展示

棒の先にトビのくちばしに似た鉄製のカギをつけたもので、建具や木材を除去するときにカギの部分を打ち込んで建具や家具を動かすときに使いました。

鳶口 鳶口

 

●刺股(さすまた)二番蔵展示

長い柄の先に、鉄製のY字形の金具をつけたものです。数人で担いで運び、柱や梁を突き壊すときに使いました。


刺子半てん(さしこばんてん)二番蔵展示
刺子半てん(さしこばんてん)二番蔵展示

江戸時代の消防(町火消)

破壊消防は延焼防止に主眼をおいているため、ひとたび火災が起きると大災害になることが多かったようです。幕府は法令を出して、町火消を編成するなど防火対策にも力を注ぎました。また、町人に対しても「鎮火用心集」などの啓蒙書で、防火思想の普及が図られました。


町火消から消防組へ

江戸城の消火組織は、慶安3年(1650)、幕府直属の4千石以上の旗本による定火消として発足しました。町火消は享保3年(1718)に町奉行大岡忠相(おおおかただすけ)が、儒者荻生徂徠の進言に基づいて組織しました。その後「いろは四十八組」として再編成され、町火消制度が確立しました。当初、町火消は町人地の火災の際に限って出動していましたが、徐々にその功績が認められ、武家屋敷の火災はもちろん、延享4年(1747)には江戸城二之丸の火災にも出動しました。
明治5年(1872)、江戸(東京)の火消は消防組に改称されましたが、明治13年(1880)、内務省警視局のもとに創設された消防本部が設置され、町火消とは別の公設消防が誕生しました。


川越の消防の歴史

川越の町火消の発足は安永3年(1774)といわれ、城下町の十カ町四門前の総勢311名で構成されました。当初から龍吐水が配備されていたようですが、明治20年、南町火消がフランス式手押ポンプを導入して以降、近代化が進められました。明治27年には消防組規則が制定され、総勢1448名で川越消防組が発足しました。昭和4年(1929)には消防常備部が設置され、現在の消防署のような常備消防となり、昭和22年(1947)の消防団令の公布に際して、川越消防本部並びに消防署となりました。

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