煙草卸商『万文』

蔵造り資料館の建物は、当時煙草卸商であった小山文造が建てたものです。屋号は万文で、所沢や飯能界隈までを商圏とする当時の川越でも有数の豪商でした。ここでは、この万文及び小山文造についてご紹介します。

 

●煙草卸商 万文

万文の前身は万屋といい、幕末頃に煙草の商いをはじめたといわれています。記録として煙草卸商万文が見られるのは明治に入ってからですが、この頃には水戸地方の葉煙草を原料として、「水府」「武蔵野」等の刻み煙草を製造していました。煙草は明治37年から専売制(官営)になりますが、それ以前の民営時代には、3大メーカーの一つといわれた東京の岩谷商会(いわやしょうかい)から「天狗煙草」の地元販売権を得て、販売をおこなっていました。また、万文の主力商品は3銭の徳用煙草でしたが、「武蔵野」「大和」といった当時の高級銘柄の製造もおこなっており、愛煙家たちには知られた存在であったようです。この頃の商いの方法は、店員が商品を背負ったり、荷箱車で近隣の小売店に卸し、各小売店で販売するというものでした。明治35年の『埼玉県営業便覧』によると、川越町内に17〜18軒の小売店があったことがわかります。

煙草の製造・販売が専売制になると、民間での煙草の製造ができなくなりましたが、万文は同じ川越の正木屋大川喜兵衛・福島屋茂木弥平治とともに「煙草元売捌人」に指定され、煙草問屋としての商いに変わりました。また、昭和6年(1931)には煙草の販売が煙草売渡制に改められ、一郡一人を指定する営業所制になりましたが、文造の子三省(みつみ)は、川越営業所に指定されました。その後、三省は東京地方局煙草販売所の設置に協力し、店舗を貸与して煙草卸商を廃業しました。煙草販売業としての万文の最盛期は専売制が敷かれる明治37年以前とすることができますが、専売制以後も川越地方の大手煙草問屋として業績を挙げていたようです。

小山文造現在の蔵造り資料館を建てた小山文造については、資料が残っておらず、詳細は不明です。万延元(1860)年に生まれ、母は地元の有力者竹谷兼吉の姉であり、恵まれた家柄であったようです。万文の最盛期には川越商業会議所の設立に奔走し、明治33年(1900)に会議所が認可されると、常議員として活躍しました。文造は大正11年(1922)に亡くなりましたが、子の三省が跡を継ぎ、川越地方の煙草販売に尽力しました。

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