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菓子屋横丁は、明治のはじめに鈴木藤左衛門がこの地に住んで、江戸っ子好みの気取らない駄菓子を製造し、販売したのが始まりとされています。 藤左衛門は、菓子作りに専念するとともに、親方として弟子を育てることにも力を注いだといいます。育てられた弟子たちは、藤左衛門からのれん分けをしてもらい、それぞれが独立し、自らが親方となって、新たな弟子たちを育てていきました。明治35年頃には、当時の高沢町、石原町あたりに少なくとも10軒の菓子商が軒を連ね、大正に入っても増え、地域も拡大していきます。 大正12年には、関東大震災が起き、菓子屋横丁にもその余波がやってきました。震災により東京の菓子商が壊滅的打撃を受け、菓子の生産が出来なくなってしまいます。被害の少なかった菓子屋横丁には、東京からの買い付けが殺到することになりました。注文に注文が重なり、捌ききれないほどの盛況だったといいます。また、東京の菓子職人がここ菓子屋横丁に来て働き、新しい製造技術を残していきました。昭和5年頃には24軒、昭和9年頃には33軒の菓子商が営業していたといいます。 弟子がのれん分けで店を出すときには、その費用を親方が出すことになっていて、その負担は大きいものでした。優秀な弟子を育てることが親方の器量を示すとされ、親方の苦労はたいへんなものだったと想像できますが、そのような菓子屋横丁のシステム〜親方と弟子の関係は時として、親子兄弟以上の強い結びつきになり、また次の世代に引き継がれていく〜が菓子屋横丁発展の原動力であったのだと解釈できます。 最盛期を迎えた菓子屋横丁は、一大菓子製造、卸売りの町へと発展し、伊勢や名古屋といった生産地と肩を並べるほどの生産量を誇っていました。 当時作られていた菓子は、80種類あまりに及びます。パン類などの「焼きもの」、胡麻ねじなどの「ねじもの」、落雁などの「打ちもの」、ようかんなどの「半生」、ハッカ白樺などの「有平糖もの」、ニッキ板などの「流しもの」、千歳アメなどの「引きもの」など、庶民の生活に欠かせない菓子を生産していました。 昭和10年代はじめ頃には、70人以上の職人が腕を競っていたといいますが、昭和12年の日中戦争の勃発から、戦争の影が徐々に菓子屋横丁にも迫ってきます。若い職人たちは徴用され、菓子の材料も手に入りづらくなっていきます。戦時下においては、人手と材料の不足によって仕事ができない状態に追い込まれていきました。 終戦を迎え、菓子屋横丁は早くも鮮やかな復活を遂げます。昭和27年頃には、41軒の菓子商がすでに営業を行っていたといいます。このことからも当時の職人たちの菓子作りに対する気概が強く感じられます。 昭和も30年代に入ると、厳しい労働条件、手作りに対する評価が下がることなどで後継者不足が起こり、大量製造、大量販売という経済、流通の変化にも飲み込まれることになりました。また、アメリカから入ってきたキャンディ、チョコレート、クッキーなどが好まれたことから、菓子屋横丁が生産していた手作りの素朴な駄菓子には、目が向けられなくなっていきました。 しかし、近年は、川越が観光地として多くの人々に認識され、健康ブームなども手伝って、素朴な手作り品への憧れ、郷愁を求めて、多くの人々で賑わうようになりました。店先では、大人、子供の区別なく目を輝かせて、所狭しと並ぶとりどりの駄菓子に心を奪われます。素朴で、懐かしくて、あったかい。そんな駄菓子があなたを待っています。
次回は、川越城本丸御殿を探検! |
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