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2001年6月
小江戸探検隊も今回で11回目を数えました。
ご覧いただいた方からご意見やご感想、ご質問なども頂戴しておりますが、
みなさん楽しんでいただいていますか?
今月は、川越の総鎮守(そうちんじゅ)・氷川(ひかわ)神社を探検します。
氷川の神は、もともとは武蔵の国を流れる川から現れた神様。
武蔵の住人が水稲耕作を行うにあたり、流水の霊威とその恩恵を
氷川の神としておまつりしたことがはじまりなのだそうです。


第11回
氷川神社

 春の風に欅の御神木がざわめき、濃い緑の音がしています。朱に輝く大鳥居は、空にぐんと伸びています。暑い日差しが照りつける土曜日の正午過ぎ。私は、氷川神社の境内の様子をしばらく見ていました。お宮参りのご家族、挙式中の新郎新婦(氷川神社には氷川会館という結婚式場が隣接)、披露宴の余興の練習をする女性二人、散歩中のおばあさんとお孫さん、神職さんや巫女さん・・・。土曜の時間はおのおのの中で過ぎているようでした。でも、ふと気づいたことがひとつありました。「なんかみんないい顔をしてる!」誰もが無理のない自然な様子で、いい表情をしているのです。氷川神社の境内に柔らかく、あたたかい雰囲気が漂っていました。私は嬉しくなって、カメラのシャッターを切り始めました。

 川越氷川神社の歴史はたいへん古く、古墳文化が伝えられた6世紀、欽明天皇の御代に武蔵一宮である大宮氷川神社を分祠したことに始まります。以後、川越の総鎮守として民衆の篤い崇敬を集め、「お氷川様」と呼ばれ親しまれてきました。御祭神は、素戔嗚尊(すさのをのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、脚摩乳命(あしなづちのみこと)、手摩乳命(てなづちのみこと)の五柱となっています。

 川越城を築城したとされる太田道真・道灌父子は、築城以来氷川神社を篤く崇敬し、道真は「老いらくの身をつみてこそ武蔵野の草にいつまで残る白雪」と和歌を献納し、道灌は境内に矢竹を植樹しています。また、江戸時代には、歴代川越城主の尊崇もたいへん篤く、氷川神社は特別のはからいを受けていました。慶安元年(1648)には、城主松平伊豆守信綱が氷川神社に神輿・獅子頭等を寄進したことから、川越まつりが始まったとされています。

 「江戸彫り」の技で全面を覆われた本殿は、川越城主松平斉典が寄進し、天保13年(1842)から嘉永3年(1850)にかけて建立されました。「江戸彫り」と呼ばれる精巧な彫刻は、江戸化政年間の名彫り師・嶋村源蔵の手によるものです。特に安藤(歌川)広重の浮世絵の影響をうけたといわれる波や、氷川祭の山車から取材した彫刻の数々は、素晴らしいの一言。氷川神社を訪れたら、ぜひご覧になってください。拝殿の脇を回って、格子壁の間から見ることができます。

 境内には八坂神社や柿本人麿神社があります。八坂神社の社殿は、寛永14年(1637)に江戸城二の丸の東照宮として建立されました。後に明暦2年(1856)川越城内三芳野神社の外宮として江戸城から移築され、さらに明治5年(1872)現在地に移され、八坂神社の社殿となりました。また、柿本人麿神社は、戦国時代に丹波の綾部から近江を経て移住した綾部家一族の祖・柿本人麿を綾部家が奉斎したものです。現在、柿本人麿の直系のご子孫は、川越に住んでおられるそうです。毎年行われる柿本人麿祭には、全国から愛読者や研究者が大勢訪れます。

 また、授与所には「縁結び玉」という石が置いてあります。「縁結びの神様」とも親しまれる氷川神社には、境内の小石を持ち帰って大切にすると良縁に恵まれるという言い伝えがあり、神職さんによって特別にお祓いをうけた清浄な小石だということです。初穂料は不要で、毎日20体のみ頒布されていますので、誰かとの良縁を望まれる方はぜひどうぞ!

 川越の人々と深く結ばれている川越の総鎮守、氷川神社。みなさんも訪れてみてはいかがでしょうか。

 

次回は、川越市立博物館を探検します。


氷川神社の境内には多くの人たちが集います。
あふれる笑顔と家族のふれあいに出会えます。

 


明神型の大鳥居。木造では日本最大級の大きさ。
鳥居中央に掲げられた社号は勝海舟によるもの。

 


「江戸彫り」という精巧な彫刻が施された本殿。
そこには、強烈な緊張感がみなぎっていました。

 


拝殿での挙式を終えられたご新郎とご新婦。
ご結婚おめでとうございます。末永くお幸せに。

 

コンテンツ制作にあたり、いくつかの文献を参考にさせていただきました。
また、ご協力いただいたすべての方々に感謝いたします。

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