喜 多 院
所縁の人物

喜多院所縁の人物

千二百年近くの長い歴史の中で、特に喜多院と深く所縁のある方です。

天海大僧正てんかいだいそうじょう

天文5年~寛永20年(1536~1643)

喜多院第27世住職。慈眼大師。
会津に生まれ、比叡山・園城寺などで修行した。関ヶ原の戦い後、徳川家康の帰依を受け、幕府の宗教行政に参画した。
徳川家康公の絶大な信頼を得、顧問的な存在として知られます。以後、秀忠公、家光公に仕えました。

慶長17年(1612)、天海の進言により家康公は無量寿寺再興を認め、喜多院を関東天台宗の本山と定めて天海の在住を招請しました。これを受け、以後、関東の天台宗寺院はすべて喜多院・天海のもとに属することとなりました。
108歳まで生きた天海大僧正が残した「気は長く 勤めは堅く 色うすく 食細くして こころ広かれ」という言葉は養生訓としてつとに有名です。
寛永20年(1643)10月2日、東叡山寛永寺にて入寂され、それから5年後、朝廷から「慈眼大師」の諡号を賜い、朝廷から賜る大師号としては史上最後、日本で7番目の大師様となりました。

天海大僧正

徳川家康とくがわいえやす

天文11年~元和2年(1542~1616)

江戸時代の初代将軍(在職期間1603~1605)。
豊臣秀吉の死後、五大老の一人となり、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝利。慶長8年(1603)征夷大将軍に就任して江戸幕府を開いた。将軍職を2代秀忠公に譲ったあとも大御所として実権を掌握した。

慶長12年(1607)、比叡山では内部の争いが起こり、徳川家康公は比叡山を束ねる人材を求めたところ、天海の名が挙げられ、天海に比叡山東塔の南光坊在住を命じました。そして、織田信長の焼き討ち以後、荒廃していた比叡山の復興にあたらせました。
翌慶長13年(1608)、家康公は天海を駿府に招き、初めて対面しました。この出会いの時期に関しては諸説がありますが、この慶長13年説が有力です。この時、「天海僧正は、人中の仏なり、恨むらくは、相識ることの遅かりつるを」と嘆いたというほど、以後天海に絶大な信頼を寄せることとなりました。

徳川家康

徳川家光とくがわいえみつ

慶長9年~慶安4年(1604~1651)

江戸時代の三代将軍(在職期間1623~1651)。徳川秀忠公の次男。
秀忠公の死後、土井利勝らの優れた補佐を得て、法制・職制・兵制・参勤交代などの諸制度を整え、幕藩体制を完成させた。

寛永15年(1638)に起こった川越大火により山門を残し、喜多院はほぼ全焼します。徳川家光公は、時を経ずして喜多院の再建に着手しました。この時、客殿書院及び庫裏は江戸城紅葉山の御殿を天海が譲り受け、解体して喜多院に移築しました。現在、喜多院に「徳川家光公 誕生の間」があるのはそのためです。

徳川家光

春日局かすがのつぼね

天正7年~寛永20年(1579~1643)

三代将軍徳川家光公の乳母。名はお福。大奥に入り、家光公の乳母となった。
家光公・家忠公の継承者争いの際、大御所徳川家康公へ直訴し、家光公が三代将軍に。大奥の制度をつくり、統率した。

寛永15年(1638)の川越大火により、山門を残し、喜多院はほぼ全焼します。徳川家光公は、時を経ずして喜多院の再建に着手しましたが、その際に客殿書院及び庫裏は、江戸城紅葉山の御殿を解体して喜多院に移築しました。喜多院の書院に「春日局化粧の間」があるのはそのためです。

春日局

慈恵大師じえだいし良源りょうげん

延喜12年~永観3年(912~985)

喜多院は古くから「川越のお大師さま」と呼ばれ、多くの人々に親しまれています。そのお大師さまのお名前は「慈恵大師じえだいし良源りょうげん」といい、平安時代のりっぱなお坊さまです。
お大師さまは1月3日にお亡くなりになったところから「元三大師がんざんだいし」とも呼ばれています。

「大師」というお名前は、立派な高僧に朝廷より贈られる尊称です。「おくり名」「諡号しごう」といい、亡くなった後に賜ります。

大師は学問・修行ともにすぐれ、また人望も厚く、比叡山の復興、衆僧の指導、修学の奨励、規範の確立など、厳格に山内をまとめられました。そして康保3年(966)55才の若さで、第18代天台座主てんだいざすに就任したのです。

伝記によると、大師の母は観音様に祈願をして大師を授かったことから、幼名を「観音丸」(日吉丸ひよしまるとも云う)と名付けたと云います。後に、大師は観音さまの化身・生まれ変わりと信仰され、ご本躰は観音さまの中の如意輪観音にょいりんかんのんとされています。

また、円融天皇の時代、勅命により五大尊法ごだいそんぼう不動ふどう軍荼利ぐんだり金剛夜叉こんごうやしゃ降三世こうさんぜ大威徳だいいとくの五大明王みょうおう)を五人の僧が修した時に、大師は不動明王の供養法を担当しましたが、修法中大師の姿が、まさに不動明王に見えたと伝えられています。このことから不動明王の化身とも云われ、室町時代には大師と観音さまとお不動さまのお姿をならべた絵が書かれました。

このように、慈恵大師良源さまは一人の高僧としてだけではなく、「ほとけさま」そのものであるとの畏敬の念を持って崇拝される立派な方です。

お正月を中心に皆様にご参拝いただきます喜多院の本堂(慈恵大師堂)には、中央にお大師さまをまつり、その尊像を如意輪観音さまと仰ぎ、左右にお不動さまをまつっています。お詣りされますと、お大師さま、観音さま、お不動さまのお三方を、一度にお詣りいただいているのです。大変大きなご利益をお受けいただけますので、どうぞこれからもご信仰いただき、ご縁を結ばれて心穏やかな日々をお過ごしいただければと存じます。

慈恵大師良源
慈恵大師の伝説

慈恵大師さまには、いくつかの物語が伝わっています。何れも古くからの大師信仰にまつわる逸話です。

永観2年(994)のある夜、大師が心静かに座禅止観ざぜんしかんをしていると、不意に一陣の風が室内に吹き込み、大師が禅定をやめてご覧になると、部屋に怪しい影がありました。大師が「だれかいるのか」と問うと、「私は疫病えきびょう神である。今天下に流行している疫病(流行りはやりやまい病)にあなたもかからなくてはならないので、お身体をおかします。」との答えがありました。
大師は「因縁ならばしかたがない。これに付けよ。」と左の小指を出されたところ、たちまち全身に苦痛が走ったが、心を静寂にして弾指だんし(指を弾き、悪いものを外に退ける作法)されると、厄神は弾き出されて苦痛は治った。
わずかに一本の指に疫病神が付いただけでも苦しいのだから、世の中の人々の大きな苦痛を一日でも早く救わなくてはと誓願を起こしました。
そして鏡に向かい禅定に入ると、鏡には夜叉の姿が写りました。ご本人の姿はそのままですが、鏡には鬼の姿が写ったのです。
その夜叉の姿を弟子に描き写させました。そして、この影像を御札おふだにして映し置くところには疫病神は近づかず、永く厄災を除くと弟子に言いました。
これにより、人々はこれを「角大師」と称して門戸や戸口に貼って、そのご利益により疫病や盗難などあらゆる厄難をまぬがれるという信仰が広まったのです。

角大師

江戸時代の寛永期、河内の国(大阪)の農家の人が田植えを無事に終えて、日ごろ信仰する比叡山横川よかわの慈恵大師のお堂とお墓を参拝しに行きました。豊作や家内安全を祈り下山しましたが、帰りの道々で河内国に大雨が降ったと聞き、田植えのすんだ自分の田畑が流されてはしまいかと心配になり急ぎ帰りました。
すると、村のほとんどの田畑が水浸しになり被害を受けている中、なぜか自分の田畑は不思議と何の被害も有りませんでした。
近所の人に様子を聞いてみると、だれか知らないが三十人余りの若者が、嵐の中手ぎわよく水を防ぎ、畦道あぜみちを作り、水を汲みだしていたということでした。
これは、横川のお大師さまをお参りしたご利益と感じ、再び参拝に行きその話を山の僧侶にしたところ、大師さまは観音さまの化身だから、三十三人の童子の姿となって救ってくれたのだと言われました。観音さまは、三十三のお姿に自在に変身して、私たち衆生を救って下さると観音経に示されています。
これにより、三十三躰のお大師さまのお姿を1枚に納めた御札を「豆大師」と呼び田畑の守りとして信仰が広まりました。
また、豆を魔滅まめつとも呼び変えて「摩滅大師」とも言い、魔を滅っするという広い意味での災難除け、悪いものを除くという信仰になりました。

豆大師

江戸時代の初めの頃、喜多院の住職も務めていた天海僧正は、深く慈恵大師に帰依(尊敬し信仰すること)していました。何事にも大師のお告げを仰いでいましたが、ある時夢に大師が現れて、信州戸隠神社しんしゅうとがくしじんじゃに観音の百籤ひゃくせんをしまっておいたので、それを私の像の前に置き、信心を凝らして吉凶を占えば、祈願に応じて福禍ふくかを知らしめよう。大いに衆生を利益せよとの、お告げを受けました。
早速、戸隠に向かい社殿を探すと、夢のお告げ通りに百枚の籤くじが収められていました。天海僧正は注釈を付け「観音籤かんのんせん」としてまとめました。これが今日の「おみくじ」の始まりです。
正式には、慈恵大師をおまつりするお堂で、礼拝し観音経を3回読み、その後修行僧におみくじを引いてもらい、吉凶を解説してもらいます。今の一般的なご自分で引く物とはずいぶん違っています。
また、普通のおみくじは、内容はほとんど大吉や吉と思いますが、観音籤は吉の類が七割弱、凶の類が三割強という割合です。凶が出る確率が高いおみくじです。
ただ、凶の籤で内容が思わしくない場合でも、自己の行いを客観的に見てその行いの良し悪しを考え、反省すべきところは反省し、身を正し信仰心をもって生活しますと、必ず吉に転じてゆくことを、私たちに示して下さいます。
喜多院のおみくじも、この観音籤を用いていますが、現在は簡素化されて、参拝者がご自身で引いていただいています。観音経は日々お唱えしていますので、どうぞ静かな気持ちで、おみくじを引いていただき、その吉凶に戸惑うことなく、内容を良くお読みいただきたいと思います。凶が出た時には、ただがっかりと気を落とすのではなく、何か自分に身に覚えはないか、改善することは無いか、そんなことを思っていただき、身を正し、自分のことは大切にしながらも、周りの人々にもやさしい心を向ける生活を心がけて下さい。信仰を持ってお過ごしいただければ、必ず良い方向に変化して行くことでしょう。

先に、角大師は疫病や厄難を除く、お大師さまの強いお力を表す御札というご紹介をしましたが、そのいわれには別の伝説も伝わっています。
お大師さまは、それはそれは端正なお姿で美男子だったと言います。
お大師さまは、関白藤原忠平卿の信頼厚く、度々御所に参内し仏教の講義をしたりご祈祷をしていました。その様子を女官たちが見ていて、すてきなお坊様と人気が高かったようです。
大師が参内したある年の春、御所の桜がきれいでしたので、庭を散策していますと、女官たちがお花見をしている所に出会ってしまいました。
お酒も入っていたせいか気分が高揚している女官が、大師さまを呼び止め「時には私達にもお言葉をいただきとうございます。」とせがみました。修行僧の身である大師さまは早く退散したいところでしたが、女官たちに圧倒され暫くお花見をともにされ過ごしていました。頃合いをみて大師さまは「今日は良いお花見をさせてもらいました。お礼に私の得意とする百面相をお目にかけましょう。」と申させますと、女性方は喜びの声を上げ、手をたたいてどうなるのかと期待をしました。大師さまは「私が顔を上げて良いと言うまで、顔を伏せていて下さい。」といいながら皆が顔を伏せると、ほどなくして「顔を上げていいですよ。」といいますと、楽しみにして顔を上げた女官たちは一斉に悲鳴を上げ、恐怖のあまり腰を抜かして顔を伏せてしまいまいた。
お大師さまの顔は、鬼の形相になっていたのです。それ以来、お大師さまが参内されても、女官たちが追い回すことが無くなり、ゆっくりと仏教の講義や祈祷などの職務をすることが出来たということです
お大師さまにとって、角大師のお姿は女難除けのご利益だったのでしょう。あくまでも修行僧ですから。

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