
川越のお大師さま 慈恵大師良源

喜多院は古くから「川越のお大師さま」と呼ばれ、多くの人々に親しまれています。そのお大師さまのお名前は「
お大師さまは1月3日にお亡くなりになったところから「
「大師」というお名前は、立派な高僧に朝廷より贈られる尊称です。「おくり名」「
大師は学問・修行ともにすぐれ、また人望も厚く、比叡山の復興、衆僧の指導、修学の奨励、規範の確立など、厳格に山内をまとめられました。そして康保3年(966)55才の若さで、第18代
伝記によると、大師の母は観音様に祈願をして大師を授かったことから、幼名を「観音丸」(
また、円融天皇の時代、勅命により
このように、慈恵大師良源さまは一人の高僧としてだけではなく、「ほとけさま」そのものであるとの畏敬の念を持って崇拝される立派な方です。
お正月を中心に皆様にご参拝いただきます喜多院の本堂(慈恵大師堂)には、中央にお大師さまをまつり、その尊像を如意輪観音さまと仰ぎ、左右にお不動さまをまつっています。お詣りされますと、お大師さま、観音さま、お不動さまのお三方を、一度にお詣りいただいているのです。大変大きなご利益をお受けいただけますので、どうぞこれからもご信仰いただき、ご縁を結ばれて心穏やかな日々をお過ごしいただければと存じます。
慈恵大師の伝説
慈恵大師さまには、いくつかの物語が伝わっています。何れも古くからの大師信仰にまつわる逸話です。
角大師

永観2年(994)のある夜、大師が心静かに
大師は「因縁ならばしかたがない。これに付けよ。」と左の小指を出されたところ、たちまち全身に苦痛が走ったが、心を静寂にして
わずかに一本の指に疫病神が付いただけでも苦しいのだから、世の中の人々の大きな苦痛を一日でも早く救わなくてはと誓願を起こしました。
そして鏡に向かい禅定に入ると、鏡には夜叉の姿が写りました。ご本人の姿はそのままですが、鏡には鬼の姿が写ったのです。
その夜叉の姿を弟子に描き写させました。そして、この影像を
これにより、人々はこれを「角大師」と称して門戸や戸口に貼って、そのご利益により疫病や盗難などあらゆる厄難をまぬがれるという信仰が広まったのです。


豆大師

江戸時代の寛永期、河内の国(大阪)の農家の人が田植えを無事に終えて、日ごろ信仰する比叡山
すると、村のほとんどの田畑が水浸しになり被害を受けている中、なぜか自分の田畑は不思議と何の被害も有りませんでした。
近所の人に様子を聞いてみると、だれか知らないが三十人余りの若者が、嵐の中手ぎわよく水を防ぎ、
これは、横川のお大師さまをお参りしたご利益と感じ、再び参拝に行きその話を山の僧侶にしたところ、大師さまは観音さまの化身だから、三十三人の童子の姿となって救ってくれたのだと言われました。観音さまは、三十三のお姿に自在に変身して、私たち衆生を救って下さると観音経に示されています。
これにより、三十三躰のお大師さまのお姿を1枚に納めた御札を「豆大師」と呼び田畑の守りとして信仰が広まりました。
また、豆を

おみくじの始まり
江戸時代の初めの頃、喜多院の住職も務めていた天海僧正は、深く慈恵大師に帰依(尊敬し信仰すること)していました。何事にも大師のお告げを仰いでいましたが、ある時夢に大師が現れて、
早速、戸隠に向かい社殿を探すと、夢のお告げ通りに百枚の
正式には、慈恵大師をおまつりするお堂で、礼拝し観音経を3回読み、その後修行僧におみくじを引いてもらい、吉凶を解説してもらいます。今の一般的なご自分で引く物とはずいぶん違っています。
また、普通のおみくじは、内容はほとんど大吉や吉と思いますが、観音籤は吉の類が七割弱、凶の類が3割強という割合です。凶が出る確率が高いおみくじです。
ただ、凶の籤で内容が思わしくない場合でも、自己の行いを客観的に見てその行いの良し悪しを考え、反省すべきところは反省し、身を正し信仰心をもって生活しますと、必ず吉に転じてゆくことを、私たちに示して下さいます。
喜多院のおみくじも、この観音籤を用いていますが、現在は簡素化されて、参拝者がご自身で引いていただいています。観音経は日々お唱えしていますので、どうぞ静かな気持ちで、おみくじを引いていただき、その吉凶に戸惑うことなく、内容を良くお読みいただきたいと思います。凶が出た時には、ただがっかりと気を落とすのではなく、何か自分に身に覚えはないか、改善することは無いか、そんなことを思っていただき、身を正し、自分のことは大切にしながらも、周りの人々にもやさしい心を向ける生活を心がけて下さい。信仰を持ってお過ごしいただければ、必ず良い方向に変化して行くことでしょう。
角大師番外編
先に、角大師は疫病や厄難を除く、お大師さまの強いお力を表す御札というご紹介をしましたが、そのいわれには別の伝説も伝わっています。
お大師さまは、それはそれは端正なお姿で美男子だったと言います。
お大師さまは、関白藤原忠平卿の信頼厚く、度々御所に参内し仏教の講義をしたりご祈祷をしていました。その様子を女官たちが見ていて、すてきなお坊様と人気が高かったようです。
大師が参内したある年の春、御所の桜がきれいでしたので、庭を散策していますと、女官たちがお花見をしている所に出会ってしまいました。
お酒も入っていたせいか気分が高揚している女官が、大師さまを呼び止め「時には私達にもお言葉をいただきとうございます。」とせがみました。修行僧の身である大師さまは早く退散したいところでしたが、女官たちに圧倒され暫くお花見をともにされ過ごしていました。頃合いをみて大師さまは「今日は良いお花見をさせてもらいました。お礼に私の得意とする百面相をお目にかけましょう。」と申させますと、女性方は喜びの声を上げ、手をたたいてどうなるのかと期待をしました。大師さまは「私が顔を上げて良いと言うまで、顔を伏せていて下さい。」といいながら皆が顔を伏せると、ほどなくして「顔を上げていいですよ。」といいますと、楽しみにして顔を上げた女官たちは一斉に悲鳴を上げ、恐怖のあまり腰を抜かして顔を伏せてしまいまいた。
お大師さまの顔は、鬼の形相になっていたのです。それ以来、お大師さまが参内されても、女官たちが追い回すことが無くなり、ゆっくりと仏教の講義や祈祷などの職務をすることが出来たということです
お大師さまにとって、角大師のお姿は女難除けのご利益だったのでしょう。あくまでも修行僧ですから。

[関連項目]